2019年 03月 11日
酢を味わうものの一幅 |
たった一泊二日の東京行きより戻り、今日は昨夜雨から雪に変わったらしい、積もった屋根の雪が融けるのを、聞くともなしに聞きながら休息日で家にいた。情けないはなしをすると、最近は体調がいまいちのなかで、このたった二日の外出が、当日までに体調を崩さず行って帰れるかと、ふとした折に触れて考えることがあった。そんなに会社を休めないから、後のことを考え無理ならやめようということを含めて。だから、あずさクーポンを買うときにも、急の発熱でも何でも、急の体調の変化に、行くのを断念したりでもすればと、買うのを前日まで待った。考えたらこんなことは初めて。気弱になっている。
最近は友人、知人のはなしにも、ネットを含めたメディアや、ブログを含めたSNS から不用意に触れる事柄にも、病気のことはあまりに頻繁に、積極的に触れられていて、溢れている。積極的に人に表すのが善のようにも昨今の風潮は感じられる。わたしはこんなに溢れるように、知らず知らず触れていたら、サブリミナル効果じゃないが、ないものも現れ出すんじゃないかと、特に更年期と認知症とがんの話題は、あまり触れたくない話題といつしか思うようになっていた。
でも風邪に罹患するんじゃないか、罹患するんじゃないかと、怖れている人のほうが、かかりやすいという皮肉な傾向があるように、それへの過度な怖れや嫌悪のこそが、精神上の反応としてはネガティブな、不健康なもののようにも、だんだん感じられ出してきた。最近の異常気象や災害など見ても、地球が病んでるなと思うことも多い。地球がこんなに満身創痍なのだから、それとある程度は一体して生きる、人間だって影響を受けないわけにいかない。ただあるものをあるままに、見聞きし流れるにまかせ、嫌悪や怖れすぎはもうよそうと思うように変わってきた。
健やかを好み愛しながらも、好んで引く禅タロットのカードにもあるのだが、going with flow で、水のように柔軟に、病むときは病み、治るものなら治り、老いるのに対しても、ある程度のアンチエイジングなら悪くはないが、強迫観念には陥らず激しくは逆らわないで、時が来たらやがて古くなった乗り物を、ただ新しい乗り物に乗り換えるように捉え、そんなに悲しまずに死んでいけばいいのかなと。乗り物も強固な性能のいい外車もあれば、コンパクトな国産軽自動車もある。個体差もあり当たりの車に恵まれるとか、大事に扱ったりなど様々な条件差により、平均よりコンディションよく、長く乗れるとかはあるけど、所詮はその程度のことなのだ。やがては乗れなくなる時がくる。
むかし友だちの家でコリーを飼っていて、ブリーダーのところでは5匹のきょうだいと一緒に生まれた一頭だったそうだが、ある時友だちのお母さんが、聞くことがあって他の子はみんなもう、先に死んじゃったと知ったそうだ。ラッキーがいちばん長生きをしたと言ってたけど、そのラッキーだって玄関で長く、寝た切りになり介護して世話をし、ある時に家族みなで外出が必要になった時に、獣医さんが預かってくれ、そこで寝返りが打てずに窒息死した。獣医さんはすごくすまながったそうだけれど、すごくよくしてくれた獣医さんだったので、ラッキーにとりそれが寿命だったのだと、寧ろ先生に気持ちの負担をかけ悪かったと、すまながるくらいで恨む気持ち一切わかなかったと聞いた。友だちも夜中に玄関でラッキーが夜鳴きをし、それを聞くと起きてきて寝返りを打たせ、夜中は2~3時間おきに起きると言っていた頃だった。
そんなことをふと思い出した。最近はもう人生の悩みの答えを求めて、読書することはなくなったけど、ある年齢までは読書することの目的の、大半がそのためになっていた時期が長かった。たぶん最後の最後に、嫌われる勇気が来て、そこで今までが必要でなかったのでなく、これも禅タロットのcompletionのカードがよい喩えになるが、パズルの最後のピースがはまり、そこでぜんぶが統合され、もうこれ以上は求道的に求めなくても、わたしは大丈夫となった気がする。そこで容器がいっぱいになり溢れる喩えもふさわしい。最近映画にもなったが、わたしは典奴どすえが懐かしくなり、前に読んで凄くよかったのが、森下典子さんの日々是好日で、そのなかでは、お茶の修行の意味がある時にわかる気がする、タイミングというのがあって、それがこころの中に個人個人異なる器を持っていて、そこに一滴一滴と色んな経験が溜まっていき、ある時にその器がいっぱいになり、溢れ出すというような感覚だと書かれていた。寧ろこっちの方がわたしは好きな喩えだ。
タイトルの酢を味わうものの一幅の、はなしになかなか辿り着かないが、いいかげん無理やりに着地させる。わたしがそんな風にして読んでいた1冊に、ベンジャミン・ホフさんの、タオのプーさんがある。くまのプーさんの物語から、タオイズム=道教を説明しようという本で、平易でおもしろく、それでいて難しく感じる人生を生きる存在に向け、力強いメッセージを秘め、わたしは大好きな本だった。そこに酢を味わうものの一幅というはなしがあった。三賢人と思われる老人が、並んで酢の入った壺を前にし、味見をした後らしい様子が描かれる。同じ酢を味わった後らしいが、その三人は皆どうも異なる表情を浮かべている。一人はすっぱそうな顔、一人は苦そうな顔という具合に。ただし一人だけは穏やかな微笑みを浮かべていた。その一幅の掛け軸の絵は寓話で、味わっているものは生老病死やらある人の生、三人の老人は孔子、仏陀、老子を表していたらしい。孔子はすっぱそうな顔をし、仏陀は苦そうな顔をし、道教の老子だけが微笑みを浮かべていた。ものごとをあるがままに捉え受け入れる、タオにおいてだけは時には人にはすっぱかったり、苦かったりする人生も、プーが好きなハチミツのように甘くおいしいから、微笑みを浮かべていられると言ったら言い過ぎだが、総じて特別にすっぱ過ぎずも苦過ぎることもない、嫌でたまらない味だということもなく、十分にその時に受け入れられるものだ、ということを表している。そのメッセージにエンパワーメントを感じたわたしは、未だにそのはなしをこうしておもいだす。
by 828summer
| 2019-03-11 16:06
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