2018年 01月 18日
何より苺という字がすきだ!(C日記⑤ 163日め) |
日曜に道の駅で、ずいぶん並んでいるのを見かけて、遅れ馳せながらも、あぁぁシーズンなんだと、気がついたイチゴ。まだ食べるのは差し入れのクリスマスのケーキ以来だった。わたしの場合はその季節を感じるところが、まず立ち寄るコンビニだったりして、平凡に尽きるが、ファミマのサンドイッチのコーナーに、イチゴだけのフルーツサンドがあった。340円もしたが(せこい)、断面に大きめのイチゴが3個ものぞいていて、贅沢な感じでそそられた。当然のことだが、帰りに買って帰り、夕方さっそく家で食べようとコーヒーを淹れた。
イチゴに目がないというほどのこともないが、苺という字には特別のパッションがあり、わたしはこの字を見るだけで、特別のある感覚を覚え惹かれる。俳句にこの字が出てくるだけで選句してしまうこともある。ほかにも愉とか凜とか海とか夏とか麦とか、そういう字は多いが、このかわいらしさは独特だ。みずみずしく柔らかい植物系の芳香のような、あまさにも清涼さがある。並ぶ苺たちは年代なら、かわいらしい少女が内省も深めていき、不機嫌さものぞかせながら、やさしさを育てているの最中の、短い一時期にいるおんなの子も連想させる。この字からは甘酸っぱさも感じられてくるが、木苺というのもまた、この苺の字を充てるのに、姿かたちや色や味のすべてがふさわしい。杏や桃や李も悪くないが、フルーツを表す漢字のなかでも、わたしには苺はやっぱり別格みたいだ。
木曜日のスマホのお知らせに出てきたので、ツイッターを開いたら、1月17日に糸井さんが震災のことをつぶやかなかった、神戸出身者としてむかついたというような、ツイートが開いた(震災のメモリアルのイベントに関わるくせにという…)。つぶやいたことの内容が悪く非難されるのではなく、つぶやかないこと自体が非難の対象にされるという、その感覚にまず驚かされた。内容的には気持ちがまったく分からないことはない。まずそれ以前に、ごくふつうの感覚でツイッターというのが、一旦その世界に足を踏み入れると、その時その場でその人に期待される人の道に照らして、あらゆることをタイムリーに、対外的に述べることが求められ、そうしないと非難が当たり前に向くような、圧力が強いものなのかと、疎くて知らずにいたのでたじろぐ感じがした。SNS ってそんなにもガチガチの監視社会な面が大きいのか。わたしなどは、その人の活動のあくまで一部で、事情で触れないときもあるし、加わるも休むも離れるも、誰かに指図や制約される性質のものではなく、好きに自由でいいはずと思っていた(若年者にとってラインなどが仲間の証しで、足並みを合わせるのが踏み絵みたいなものだとは、わたしも聞いたことはあるが、そのうちにそういう関係は、卒業するのだと思っていた)。糸井さんに話を戻せば、ツイッターは一般人にはリアルな表現活動を補完してくれる便利なものだろうが、糸井さんなどは公にも表現伝達の場が多い。どこかでそれなりタイムリーに述べることもあるだろう。それでもツイッターでも必ずつぶやかないとダメだとしたら、今の社会の要求はきついなぁ。
わたしなども、ブログにはかなり密着した生活をしてはいる。読み慣れたているかたが、長く書かれなかったり、毎日のように更新するかたのペースが変わったりすると、どうしたのかなという心配が最初生まれ、早く読みたいなぁと思いはじめ、その内には何か少しでも、理由を説明してくれたらいいのにと、思うときが正直ある。だからあのツイートも、もしかしたら元の感情としては、そのくらいだったものが昂じ、時間の経過で怒りにすりかわったのを知らずに、拡散してしまってだけなのかもしれないとも思う。わたしは相手の自分には好ましくない言動に対しては、相手を責めるのでなく、そうされて自分が悲しいとか、ショックだとか、I(アイ)メッセージで、相手に伝えることを、ボランティアでかなり何度も教えられてきているので、そんな風にも後になると想像している。
すっかりタイムアップというか、すでにだいぶオーバー。今日のところはこのあたりで。読んでくれたひとにはほんとうにありがとう。週末だ、もうひと頑張り。新しい日が、この週末がまた、みなさまにもわたしにも、それぞれによくありますようにね
by 828summer
| 2018-01-18 17:20
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