2016年 12月 12日
スパイラル(C日記③ 137日め) |
※長い、理屈っぽい、暗め。そんな日の日記だから、あまり読んで気分よくなるものじゃないと思います。わたしの頭の整理のため。本人はしっかりしゃがんでから、ジャンプするつもりではいますけど、まだやる気がでない。面白くないから、かといっていつもが面白いわけでもないけど、本日わたしの読みとばしのご推奨の日記です。※
バイオリズムなんでしょうか。毎日毎日、気分は螺旋状に上がり下がりしています。この螺旋状の気分の浮き沈みは、わたし惑星の自転みたいなもので、螺旋状に軌道を描きながら、全体の軌道は1年で一周するんでしょうか。木でなく森を見よが大事でしょうね。でも森を見ようとしても、何か今はよく見られない。1年の成果が感じられず、後退したように感じられる。怠けたような1年が重くのしかかる。
どこが始まりか分かりませんが、今は下る方の軌道か、底についた辺りにいるみたいです。生理痛や、PMSでしたっけ!? や、更年期症状のように、身体症状にはわたしは出ない方みたいで、気分だけが落ち込んできます。ありがたいことに相当に落ち込んでも、鬱までは何とかならずに留まる、神経にわりに耐性があるみたいです。こころに強めのストレスを受ける(感じる)と、それを体の方が代替わりして吸収し、そちらが苦しむので神経の方は、もろダイレクトに受けず、守られてもいるって働きが、わたしは人にはあるような気がしています。真面目な向上心の強い人ほどこっちは必要だし、そこで無理せずに弛ませるのがいい気がします。根がなまけもので、自分がかわいくて、最終的にはかっこわるくても、逃げる、逃げられるってタイプは、体にはあまり出ないようです。心や体をこわすくらいなら、最後はわたしは逃げ出す。決まったら逃げ足は早いと思います。
端的ですが、小学校の中学年くらいか、一通りの免疫パターンを、体が獲得するまでは病欠もよくしましたが、それを過ぎると高校までは皆勤賞でした。さぼるのを覚えるのは、その後からです。父の兄が北杜夫さん的に鬱期がある人でした(農業なので、伯母は大変だったろうけど、上手くそれと付き合い、特別医者に掛かるということもなく、人並みの生活を送り、一生を全うしました)。父と伯父は仲が良かったので、それを見てよく知っていて、わたしが落ち込んでると、母には伯父のようだと言っていたようです。わたしには言いませんでしたが。よっぽどの外圧にさらされないと、今はそういう状態にはならなくなりました。昔は伯父のように周期がありました(8割方は落ち込んでました)。今もまだ、何が変わったのか、分かるようで分からないです(想像している理由はある)。居間でじっとしてるわたしに、父が言ったことがありました。落ち込んだ時にそんな風にじっとしてたら、余計によくない。そんなときは体を動かせ、動かして血の巡りが良くなれば、気持ちが軽くなる、って。
父は落ち込んでるってことが、ほとんどない人でした。お父さんはそう言うけどって、当時は思っていました。でもそう言うセリフが出るってことは、今思えば、ああいう兄の様子を見て知っていて、自戒もあったのかもしれません。バイオリズムのようなや、仕事のことやら病気やら人間関係やらで、押しつぶされそうな気分になることだって、おそらくはあったでしょう。そういうときに体を動かして、気を紛らしたり、軽く感じたりしてきたんじゃないかと。今、無意識に紛らすって言葉が出てきましたが、父は生活習慣病のデパートのような人でした。ストレスを受けて落ち込まないために、がむしゃらに体を動かして、忙しくして、遊びにいってというのも、過度には良くないのでしょう。
来年は、って、今年も少し残ってますが、でも来年は1年がんばったな、という成果を感じられるような年末が迎えたい。1年の計を感じるって、やはり後退ばかりに感じられると、精神安定に悪い。落ち込んだときに、気持ちを弛ませるような、何か手や体を軽く動かすような、趣味とか作業とか見つかって、億劫に感じずできるといいんですが…。1年の大半を落ち込んでいた長い時期から、今ようやく1年の大半は落ち込まずに過ごせるようになって、1年の計を意識するようになった、ということなのかもですが。
課長が辛口に本社の色んな人のこと批評するのを聞いたり、自分についての人の評価を耳に挟んだり、そんなことでも落ち込むようです。きたやまさんが、紆余曲折あっても、結果的には2つのキャリアで、普通以上の成功をおさめられたこと、70の今振り返っていました。でも妻子も普通にあり、家庭的な幸せも両立しているらしいことは、本文で一切触れていなかった。何かそれにひっかかりを覚えました。他と同じに書けばいいのに、と。
それを知る前、読み終えるちょっと前には、この人は普通の人がなかなか手に入れられないものを、感情的な葛藤も細やかに味わいながら、2つも実現している。でも他の人間関係は触れてそこには全く触れてないから、家庭は持たなかったのかな、そこまでは手が回らなかったのかな、とちょっと想像し勝手に親しみを感じていました。でもそうじゃないと知った(後書きにわずかに触れられていた感じで、ネットで有無を調べた)。全てバランスよく手に入れられる人も、わたしはそれはいいと思うし、人は人だと嫉妬しないでいられる、と思っていたのですが。(自分にない人間力や、愛の大きさに、包容力を感じたりもします。)でも、きたやまさんには、そこだけは不器用なんだなと、親しみをそこに感じちゃった後だと、何か急に好感が薄れていくのが、不思議なくらいでした。やっぱりわたしのコンプレックスは、納得してるつもりでも、ここにちゃんとあるんでしょうね。ある意味、精神分析的にここは読書の効果でしょう。うまく消化できるかはこれからの話ですが。
ああ、ここまでもし読んでくれた人がいたとしたら、どんな風に思われるのだろうな。考え方は違っても、置かれた場所は違っても、どこか似たようなことに、悩んだり考え込むことのある、そんな人だったりするのだろうか。揺れますよね。人間ですものね。なんて独り言です。だいぶ長くなりましたが、今日のところはこのあたりで。読んでくれたひとにはほんとうにありがとう。新しい日がまた、みなさまにもわたしにも、それぞれによくありますように
バイオリズムなんでしょうか。毎日毎日、気分は螺旋状に上がり下がりしています。この螺旋状の気分の浮き沈みは、わたし惑星の自転みたいなもので、螺旋状に軌道を描きながら、全体の軌道は1年で一周するんでしょうか。木でなく森を見よが大事でしょうね。でも森を見ようとしても、何か今はよく見られない。1年の成果が感じられず、後退したように感じられる。怠けたような1年が重くのしかかる。
どこが始まりか分かりませんが、今は下る方の軌道か、底についた辺りにいるみたいです。生理痛や、PMSでしたっけ!? や、更年期症状のように、身体症状にはわたしは出ない方みたいで、気分だけが落ち込んできます。ありがたいことに相当に落ち込んでも、鬱までは何とかならずに留まる、神経にわりに耐性があるみたいです。こころに強めのストレスを受ける(感じる)と、それを体の方が代替わりして吸収し、そちらが苦しむので神経の方は、もろダイレクトに受けず、守られてもいるって働きが、わたしは人にはあるような気がしています。真面目な向上心の強い人ほどこっちは必要だし、そこで無理せずに弛ませるのがいい気がします。根がなまけもので、自分がかわいくて、最終的にはかっこわるくても、逃げる、逃げられるってタイプは、体にはあまり出ないようです。心や体をこわすくらいなら、最後はわたしは逃げ出す。決まったら逃げ足は早いと思います。
端的ですが、小学校の中学年くらいか、一通りの免疫パターンを、体が獲得するまでは病欠もよくしましたが、それを過ぎると高校までは皆勤賞でした。さぼるのを覚えるのは、その後からです。父の兄が北杜夫さん的に鬱期がある人でした(農業なので、伯母は大変だったろうけど、上手くそれと付き合い、特別医者に掛かるということもなく、人並みの生活を送り、一生を全うしました)。父と伯父は仲が良かったので、それを見てよく知っていて、わたしが落ち込んでると、母には伯父のようだと言っていたようです。わたしには言いませんでしたが。よっぽどの外圧にさらされないと、今はそういう状態にはならなくなりました。昔は伯父のように周期がありました(8割方は落ち込んでました)。今もまだ、何が変わったのか、分かるようで分からないです(想像している理由はある)。居間でじっとしてるわたしに、父が言ったことがありました。落ち込んだ時にそんな風にじっとしてたら、余計によくない。そんなときは体を動かせ、動かして血の巡りが良くなれば、気持ちが軽くなる、って。
父は落ち込んでるってことが、ほとんどない人でした。お父さんはそう言うけどって、当時は思っていました。でもそう言うセリフが出るってことは、今思えば、ああいう兄の様子を見て知っていて、自戒もあったのかもしれません。バイオリズムのようなや、仕事のことやら病気やら人間関係やらで、押しつぶされそうな気分になることだって、おそらくはあったでしょう。そういうときに体を動かして、気を紛らしたり、軽く感じたりしてきたんじゃないかと。今、無意識に紛らすって言葉が出てきましたが、父は生活習慣病のデパートのような人でした。ストレスを受けて落ち込まないために、がむしゃらに体を動かして、忙しくして、遊びにいってというのも、過度には良くないのでしょう。
来年は、って、今年も少し残ってますが、でも来年は1年がんばったな、という成果を感じられるような年末が迎えたい。1年の計を感じるって、やはり後退ばかりに感じられると、精神安定に悪い。落ち込んだときに、気持ちを弛ませるような、何か手や体を軽く動かすような、趣味とか作業とか見つかって、億劫に感じずできるといいんですが…。1年の大半を落ち込んでいた長い時期から、今ようやく1年の大半は落ち込まずに過ごせるようになって、1年の計を意識するようになった、ということなのかもですが。
課長が辛口に本社の色んな人のこと批評するのを聞いたり、自分についての人の評価を耳に挟んだり、そんなことでも落ち込むようです。きたやまさんが、紆余曲折あっても、結果的には2つのキャリアで、普通以上の成功をおさめられたこと、70の今振り返っていました。でも妻子も普通にあり、家庭的な幸せも両立しているらしいことは、本文で一切触れていなかった。何かそれにひっかかりを覚えました。他と同じに書けばいいのに、と。
それを知る前、読み終えるちょっと前には、この人は普通の人がなかなか手に入れられないものを、感情的な葛藤も細やかに味わいながら、2つも実現している。でも他の人間関係は触れてそこには全く触れてないから、家庭は持たなかったのかな、そこまでは手が回らなかったのかな、とちょっと想像し勝手に親しみを感じていました。でもそうじゃないと知った(後書きにわずかに触れられていた感じで、ネットで有無を調べた)。全てバランスよく手に入れられる人も、わたしはそれはいいと思うし、人は人だと嫉妬しないでいられる、と思っていたのですが。(自分にない人間力や、愛の大きさに、包容力を感じたりもします。)でも、きたやまさんには、そこだけは不器用なんだなと、親しみをそこに感じちゃった後だと、何か急に好感が薄れていくのが、不思議なくらいでした。やっぱりわたしのコンプレックスは、納得してるつもりでも、ここにちゃんとあるんでしょうね。ある意味、精神分析的にここは読書の効果でしょう。うまく消化できるかはこれからの話ですが。
ああ、ここまでもし読んでくれた人がいたとしたら、どんな風に思われるのだろうな。考え方は違っても、置かれた場所は違っても、どこか似たようなことに、悩んだり考え込むことのある、そんな人だったりするのだろうか。揺れますよね。人間ですものね。なんて独り言です。だいぶ長くなりましたが、今日のところはこのあたりで。読んでくれたひとにはほんとうにありがとう。新しい日がまた、みなさまにもわたしにも、それぞれによくありますように
by 828summer
| 2016-12-12 16:38
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