2015年 07月 13日
毒舌な方が何で好きなんだろう |
ときどき面倒になることがある。
腹立てても嫌だと思ったことがあっても、大概は相手が謝ってきたり、別に謝らなくてもいいから、もう気にしてないこと、態度で示してきたら、わたしなど単純だから気持ちがもうどうでもよくなってくる。
でもそれじゃすまない人も世の中多いのか、わたしなど人の心がなかなか読めず、知らず知らずに人の気分を害したり、その結果嫌われたり、敬遠されたりしている。
そういう子ども時代の手痛い経験が、価値判断の効かない年代だけに、インプットが強く学習されすぎて、無意識下に長く尾をひいていたのかもしれない。人の反応を考えすぎ、何か言うことに過剰に臆病になってたところがあった。
ほんとうになが~く、ずっとうつうつしてたのが、急速に空から雲が切れるように晴れてきて、気持ちがのびのびしてくると、思ったことを自然に言っている自分に気づいて、まだ前の自分の記憶もあるために、何だか不思議な気がする。そうすることが増えると、やはりあまりよく思われなかったり、ひどい時には嫌われたりすること多くなってきた。
そのことに意識がいくと気が重くもなるけど、毎日は動いていくし、同じところにじっとして動けないわけではない。また意志的でなくても、やらなくてはならないことに意識は向けられていく。
自分自体のエネルギーは別にそれにより絶対的に減らされているわけではなく、その場を離れると元の自分が戻ってくることに気づいてみると、何でいつもいつも同じところに自分を、動かさずに置いておくことしか頭になかったのか、今は不思議だ。
わたしは、泉谷しげるとか、大竹まこととか、ビートたけしとか、毒舌と言われることもある人のこと、こういう人、人として好ましいな、いいなぁと思うことが多かった。みんなさみしがりだし、繊細だし、人一倍の人情家のような気もする。
愛し愛される人も、理解して好いてくれる人も多いだろうけど、それで補うのに余りある悪意も否応なく受けてきたのではないか。若い頃は特に。毒舌を吐いて嫌われて悪く言われて、それでもそうせずにいられなくて、悪意ある反応に傷ついて、生きにくい時を過ごすことが多かったのではないかと。
一昨年の紅白に泉谷が出て、機嫌よくお祭りムードに合わせて一緒になって盛り上げたりせず、客席にキレたりしたって後で話題になったことがあった。
わたしはああいう場を楽しく盛り上げるような、気のいい人は大好き。それに意味もなく水をさす悪意は嫌だなと思う。でもあのとき泉谷は、年末のあたたかいムードに包まれ、家族に囲まれて賑やかに過ごす、紅白に象徴されるそれなり恵まれ幸せな人にではなく、それと対極にありながらなおかつ紅白をテレビでみている、一人ぼっちだったり、年末に仕事を失っていたり、離婚したばかりだったり、いいことないな、惨めだなって気持ちを噛み締めてるような人に向けて、歌っていた気がした。それでその場のムードに、気持ちを添わせることができなかった。
わたしあの年末は、先のことも考えず仕事を辞めたばかりで、全く先も見えず一人で紅白を観ていて、泉谷が間奏中にそんないいことなんか何にもないおまえら、それもみんな今日で 終わる!今日で終わる! と言うのに、思わず流涙だったから。後で話題になった視点が自分の感じたのとはだいぶ違い、わたしはマイナー派なんだなと思った。
でも泉谷って、家族にも恵まれ、孫にはいいおじいちゃんで、芸能界に慕う若い人も何人もいて、自分からもそういう人に気持ちをかけたりしてるような人。実は率先してチャリティなんかもやる。それでもアウトローの自分を忘れず、マイノリティに気持ちを同化させられる。
何かそういう変わらない気持ちを持っているって、考えたらすごいことだな、何で出来るんだろうと、今日はそんなこと初めて思った。
ここのところ何だか、ポジティブにばかり傾いていたからか、少し今日は違う自分が「俺にも言わせろ!!(おいおい、女子なんですけど…)」って、そんな感じですかね。
腹立てても嫌だと思ったことがあっても、大概は相手が謝ってきたり、別に謝らなくてもいいから、もう気にしてないこと、態度で示してきたら、わたしなど単純だから気持ちがもうどうでもよくなってくる。
でもそれじゃすまない人も世の中多いのか、わたしなど人の心がなかなか読めず、知らず知らずに人の気分を害したり、その結果嫌われたり、敬遠されたりしている。
そういう子ども時代の手痛い経験が、価値判断の効かない年代だけに、インプットが強く学習されすぎて、無意識下に長く尾をひいていたのかもしれない。人の反応を考えすぎ、何か言うことに過剰に臆病になってたところがあった。
ほんとうになが~く、ずっとうつうつしてたのが、急速に空から雲が切れるように晴れてきて、気持ちがのびのびしてくると、思ったことを自然に言っている自分に気づいて、まだ前の自分の記憶もあるために、何だか不思議な気がする。そうすることが増えると、やはりあまりよく思われなかったり、ひどい時には嫌われたりすること多くなってきた。
そのことに意識がいくと気が重くもなるけど、毎日は動いていくし、同じところにじっとして動けないわけではない。また意志的でなくても、やらなくてはならないことに意識は向けられていく。
自分自体のエネルギーは別にそれにより絶対的に減らされているわけではなく、その場を離れると元の自分が戻ってくることに気づいてみると、何でいつもいつも同じところに自分を、動かさずに置いておくことしか頭になかったのか、今は不思議だ。
わたしは、泉谷しげるとか、大竹まこととか、ビートたけしとか、毒舌と言われることもある人のこと、こういう人、人として好ましいな、いいなぁと思うことが多かった。みんなさみしがりだし、繊細だし、人一倍の人情家のような気もする。
愛し愛される人も、理解して好いてくれる人も多いだろうけど、それで補うのに余りある悪意も否応なく受けてきたのではないか。若い頃は特に。毒舌を吐いて嫌われて悪く言われて、それでもそうせずにいられなくて、悪意ある反応に傷ついて、生きにくい時を過ごすことが多かったのではないかと。
一昨年の紅白に泉谷が出て、機嫌よくお祭りムードに合わせて一緒になって盛り上げたりせず、客席にキレたりしたって後で話題になったことがあった。
わたしはああいう場を楽しく盛り上げるような、気のいい人は大好き。それに意味もなく水をさす悪意は嫌だなと思う。でもあのとき泉谷は、年末のあたたかいムードに包まれ、家族に囲まれて賑やかに過ごす、紅白に象徴されるそれなり恵まれ幸せな人にではなく、それと対極にありながらなおかつ紅白をテレビでみている、一人ぼっちだったり、年末に仕事を失っていたり、離婚したばかりだったり、いいことないな、惨めだなって気持ちを噛み締めてるような人に向けて、歌っていた気がした。それでその場のムードに、気持ちを添わせることができなかった。
わたしあの年末は、先のことも考えず仕事を辞めたばかりで、全く先も見えず一人で紅白を観ていて、泉谷が間奏中にそんないいことなんか何にもないおまえら、それもみんな今日で 終わる!今日で終わる! と言うのに、思わず流涙だったから。後で話題になった視点が自分の感じたのとはだいぶ違い、わたしはマイナー派なんだなと思った。
でも泉谷って、家族にも恵まれ、孫にはいいおじいちゃんで、芸能界に慕う若い人も何人もいて、自分からもそういう人に気持ちをかけたりしてるような人。実は率先してチャリティなんかもやる。それでもアウトローの自分を忘れず、マイノリティに気持ちを同化させられる。
何かそういう変わらない気持ちを持っているって、考えたらすごいことだな、何で出来るんだろうと、今日はそんなこと初めて思った。
ここのところ何だか、ポジティブにばかり傾いていたからか、少し今日は違う自分が「俺にも言わせろ!!(おいおい、女子なんですけど…)」って、そんな感じですかね。
by 828summer
| 2015-07-13 20:58
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