2017年 06月 10日
続きを忘れていた(C日記④ 138日め) |
のんびりした土曜日。いつもの如く朝ドラ1週間のまとめを、見ないことには始まらないわたしである。今度の朝ドラはわたしみたいなタイプにはとてもいい。1週間の終わりにこれを見るのは、みんな案外にこんな感じさ、って冴えない自分を振り返ってみても焦りを覚えることなく、何だかマッサージのような温かさがある。ヒロインは若くても、意気揚々なタイプでは全然なく、集団就職の先が倒産して、出てきた東京で、年末によもや失業者かという状況に陥る(救いの手は差しのべられて、何とか縁のあった洋食屋に、再就職が決まったので、一先ずご安心を。どたばたがまた始まりそうでもあるけど…)。このヒロイン、でもそんなにおっとりと、ピュアなという感じでもない。人がいい親切なやさしい心根だが、意外に周りの人も自分もクールに見ていたりする。長子タイプのお節介さもあるが、世の中の人に自分がどう見られてるか、目立たない、どちらかと言えば軽く見られるタイプと、三枚目な間の悪い、自分の冴えなさも自覚している。それをいつも俯瞰して、自嘲気味に語るような、心のなかの声があり、そんなところにも親しみを感じる。周りに力になり、支えてくれたり、慰めてくれる人も出てくるけど、どっかいびつな欠点や弱点もある人で、案外苦労人のヒロインは支えられつつも、相手を思いやったりしていることも多い。ただそういう人たちがみな、根が楽天的、単純だったりする。そこもいい。冴えなくて、トホホな状況になることが多い中で、コミカルな演出が主旋律な感じ。シンプルな人たちの言動は、随所に本音の思いも溢れて、それを思いやったりする場面や、心暖まるシーンやセリフが多い。冴えないヒロインが、その冴えなさをあまりめげず、けっこう明るく呑気に捉えて生き、周りにも似たような人が集まる、群衆劇みたいな感じかな。これはわたしには1週間に1回あると嬉しい存在です。朝ドラ的には新タイプにして、やっぱりわたしが見るに、王道感つよしな感じがするけど、世の中の反応はどうなのだろうな。
澪尽くし料理帖、武士メシ、インディペンデンスディ。テレビもよく観た一日だった。武士メシが始まってみて、何か料理、食べることがテーマになるのが、今の時代の改めてドラマや小説の、流行りなんだなと思う。代わりにその世界からかつてあった、何かが消えたり弱くなっているのだろう。何だろう、昔風の家族とかかな。
前置きが長くなったが、ちょうど繋がってきた。この前の高山の話のように、またぽつぽつ続けたいと思う上野先生の講演の話。今日は翌朝日記だが、やらなくちゃならない雑事もあるから、触りだけのつもり。と言いながら記憶が日が経つに連れ、曖昧になる心配もあるけど。メモを見直したら、自分の書いた字であるにも関わらず、何を書いたかが、自分でも意味不明の箇所多し。メモを取るということについては、取る派、取らない派あるだろう。メモを取らない方が講義や講演会は、内容がちゃんと理解でき忘れないとする説があり、有力な説でもあることは承知している。だから毎回わたしには悩みどころだが、わたしは貧乏性で取らずにいられない。取らずに聴いたらどれほど、深く話に入り込めるだろうかと想像し、取らない方がいいという説の魔力にも抗いがたくている。
上野先生の「下り坂を降りる」の講演の話は、畳の上でのお婆さんの臨終を見守る、おそらく息子や嫁、孫やその子(ひ孫)という、四世代の家族を写した写真を見せ、あなたはこれを見てどう思いますか、こんな形の死をあなたは望みますか、というような語りかけから、始まったような覚えがある。それへの場内からのリアクションは、一時停止みたいに、殆ど固まってしまっていたような、自分のそれを振り返ってもみても、そんな気がする。それで少し間をおいてから、上野先生の方が、「こんな死に方、望んでも無理や」、と(自分の本音みたいなのを言葉にされる時に上野先生は関西弁になるよう)言われました。続けて今は世の中で看取りをする嫁は、もう絶滅危惧種になっているとも。そこから今の日本の男女別、年代別の有配偶率などのグラフに移ったような。その話はわたしの不確かなメモだけでなく、2009年夏~2010年春の連載の文章から収録されたとある、上野先生のエッセイ「ひとりの午後に」のなかの、“おひとりさまの将来”と題する文章にもデータが示されていたから、経過年を考慮しそちらも併せ参照してみる。それによると、今後おひとりさまは急速に増加するとある(その7年以上まえの文章の冒頭にそうある。今なら実感としても、わたしにもより当たり前のことに、なってる事実も怖い)。今の五十歳になっても一度も結婚したことのない人の割合は、男で4人に1人、女で7人に1人だとか。ちなみに団塊の世代、今60代後半の上野先生だと、自分のような独り者(女のことかも)は全体の3%、極めてレアケースだったと。それが今の30代が、その年になった時の予測では、男が3人、女が5人に1人にも増える。
少子化も深刻だし、子どものいない夫婦も増加している。家族の形態も変わってきた。そんな状況で、これからは、婚姻をしても、離別・死別により後天的になるおひとりさまも加わって、その全ての男女にどんどん数が増えていくのが、今の社会状況の変化らしい。そして今すでに、そして将来、その人たちは高齢者であり、その暮らしをどう送るか、老後の問題をおひとりさまは抱えている。
赤信号みんなで渡れば怖くない、ではないところが、この問題の難しいところ。主体がどんどん老いて、弱く、非力になるので、若い頃のようには、たとえしようとか、したいとか思っても、自分の問題であるにも関わらず、なかなか思うようには解決していけない。障害者の福祉は障害者が自分たちで、苦労して闘って勝ち得てきたものだから、障害者を主体とした、そういう介助が得られるような、ものにかなりな部分でなっている。身心的には弱くて、介助を必要としても、介助してくれる人との間は対等であり、そこに主従の関係は少くとも建前上は、お互い排除される意識が存在していると。でも高齢者のそれは、高齢者が主体となり、自分たちに良いように、考えて作られてきたものでない。その違いが大きい。いずれ皆が迎えるものなのだから、自分がその時を迎えるときに、こうあって欲しい、そういうものとして考える視点が、わたしもまだ持てていなかったな、ということを改めて思わされた。
上手く伝えられていないのは自分でも承知の上だし、おまけに中途半端でもあるけれど、この辺りで今日は次の機会に送り続きとします。悪しからずです。と言うことで、今日のところはこのあたりで。読んでくれたひとにはほんとうにありがとう。新しい日が、この日曜日がまた、みなさまにもわたしにも、それぞれによくありますように
by 828summer
| 2017-06-10 16:38
|
Comments(0)