2017年 06月 05日
やがて淋しく…(C日記④ 133日め) |
朝はだいたい書いてあったのでアップしたけど、体調が朝はすぐれず起きられずに会社を休んだ。午後から調子がよくなってきて、上野千鶴子さんのエッセイを読み進んだら、何だかだんだんに普段感じないような、淋しい気持ちが湧き出してきて、何なんだろうなぁ。この気持ちは。講演会に行った後の最初の印象では、寧ろ元気になるだろうと思ったのに…。
一人でいるのは不安はないわけじゃないけど、個人単体で考えたときにわたしは、そんなに今の生き方をわるいものと思っていない。親のいるときは親のことを考えたから、過剰に世間の目を気にしていたと思うから、だいぶ違ったけれど。今のわたしはいつもいつもそんなに、淋しいとか思うこともないし、単調な生活を普通におくっている。上野さんの来し方が窺われるようなことが語られるが、社会的には精力的に働きながら、余暇には非日常の華やぐようなレジャーに明け暮れ、年取ったら夕陽のきれいなところに移り住みたいとか、定年になったら犬を飼いたいとか思いながら、年末年始は独り者には毒だと、休日家族を求める気持ちをさらす。わたしは家族もちじゃないけど、人もちだから誰かと過ごしたいと思うときには、幸いなことに会ってくれるような友人にはあまり困ることはない。そんなようなことを、今から8、9年前の上野先生は書いている。そして人生後半生は下り坂で、弱く後天的障害を身につけていくようなもの。それを人格が尊重され、自己決定権が守られるような、社会や人の意識の変化のことを、考えていかなければ、と言われる。認知症になることはある意味で前提での話。
絵空事じゃ生きられないとは言っても、年取っても生きがいはあると思えるし、また欲しいと思うし、それを権利なんて言葉で大上段に主張しないでも、自分の気持ちに逆らわず、自由に自然体で暮らせる生き方が欲しい。よくすれば90代半ばくらいまでなら許される人もいる。そうできる人ばかりでないから、社会の体制を変えましょう、ということなのだけど、何故か淋しくなってきてしまったわたしでした。空いてしまった隙間をもて余し、何か埋めてくれるようなものが手近にないかと、そんな気分が広がってきた。本棚から探してきたりする気も起きず、先日文庫で買った村上春樹さんの、読みはじめていた「職業としての小説家」に何となく手を伸ばした。何か読んでいて無理がなく自然体で、(村上さんは書くという)生きがいのために摂生もして、そのためによく生きるという単調な暮らしを、大喜びではないかもしれないが、たぶん喜んでおくっている。個人主義的で。何だか隙間に注ぎ込まれるような気がした。心が慰められた気がした。不思議だな。お二人はほぼ同い年。それでも上野先生を寧ろ好きだという気持ちも変わらない、わたしは村上ファンではないから、よくも知らないでいたのに…。でも村上さんの生き方に慰められる気がした。
また時間切れ。自分の気持ちもわからず、意味不明なまま書いた。読むひとは尚更だろう。失礼しました。でもわたしもまたがんばろう。普通の毎日を。今日のところはこのあたりで。読んでくれたひとにはほんとうにありがとう。新しい日がまた、みなさまにもわたしにも、それぞれによくありますように
by 828summer
| 2017-06-05 17:07
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