2017年 02月 11日
退屈から今の棚卸になる(>_<)(C日記④ 19日め) |
退屈ということを、なぜかここ暫くは、ほとんど感じない日々を送っていた。今日はそれが違う。退屈を感じて、思いつくことと言ったら、何かたべるものを作ることくらいしかなかった。貰ったまま食べてなかったら、野沢菜がもう酸っぱくなってきていた。もったいないので、油で炒めて甘辛く味をつけた。貰ったまま、やはり食べていなかった白菜は、刻んで塩揉みして絞り、シーチキンとサラダにした。味つけはマヨネーズとハニーマスタード。けっこう美味しくできた。マヨネーズは小さいサイズの、エゴマ油のものを先日奮発して買った。心なしか美味しい。キューピーからも出たらしいが、わたしが買ったのはマイナーなメーカーのもの。野沢菜の油炒めが美味しくできたので、それを芯にしてお寿司よりは楽そうと、初めておにぎらずを作る。のり一枚の半分に、ご飯を敷き詰める形で、具をはさんでまたご飯をかぶせ、半分ののりでサンドイッチ。ほんとうはこれが正解。わたしは全部ご飯をのせてしまい、その上に具をのせ、片側ののりを寄せてきてサンドイッチ。味は悪くないが、切ったおにぎらずを食べてる時、具がぽろぽろとこぼれる。あらら、失敗した。
退屈がだんだんにお天気のように変化しだす。去年、自然体で思ったことを言ってしまい、そんなに悪かったとも思えないのだけど、相手の気分をやはり害していたのだと、想像できるようなことがある。仕事柄みでも、立場上言わなくちゃならないため、外注さん達にも、煙たがられるようなことを言うやり取りが、少し前に重なった。マインドフルネスの本を読み出した時に、自分の心に次々浮かぶことをありのまま見つめていくという、非瞑想だったかを、試しにやってみたことがあった。あの人やだなとか、あんなこと言われたなと、今思い出して腹が立つとか、わたしもいっぱい思っていた。実は執念深いところ、なきにしもあらずなのにもはっきり気がついた。人から聞かされると、何でこの人はこんなことばっかり、いつも言うのかしらと、内心嫌な気持ちになっていたけど、自分だってと相手を批判というか、しょうがないな、と不遜になってる。その自分を反省した。次同じことがあれば、もう少しうまくやれるかもしれないけど、来るものは拒まず、去るものは追わずで、あきらめる=明るく究める、で進むしかない。どんどん人が寄ってくる、あまりけっして離れていかない、魅力的な人はいいなぁ。未だにこんなことを思うわたし。方や若くてもそういう人がいる。生まれもった心根がいいのだ。そうでない人は、一生かけて少しでも、よりよく、よりよくって、亀みたいに進むのみなのね。
実は昨日、退屈していることに気づいてから、だんだんに思考は、わたしは楽しむのも下手だしなとか、究めてるようなものもないよなとか、色々長続きしないよなとか、ただの退屈がだんだんに嫌な雲行きになり、このまま落ち込んで、もしかしたら久しぶりに鬱っぽい気持ちに、転落していくのかな、と思ったりした。でも書き続けたブログはありがたい。書いてるうちに気持ちが変わる。凡人は、あるとしたらだけど、そんなに生まれつき魂の格も徳も高くない人間は、成功と失敗、ポジティブとネガティブ、明暗、開閉、陰陽、軽重など様々のの曲がり道を、毎日毎日、各タイミングで、なるべくポジティブな方を選びたいと思って、間違えたらあまりくよくよせず、また次の曲がり角で良い方を選び直そうと、そんなこと死ぬまで思って生きる存在なのかなと思えるようになってきて、またじわじわといつものわたしままだと思えてきた。でも退屈し出したということは、そろそろ何か新しいことをする時がきたぞとか、もっと能動的に動くときなのを忘れたのかとか、そういう無意識からの突き上げ、シグナルなのかしらね。
日曜日は中断のマインドフルネスの本を読もうかな。今日はまたグダグダばかり。読んじゃった人には、こんなものを読ませてしまい、大変に悪いことをしました。今日のところはこのあたりで。読んでくれたひとにはほんとうにありがとう。新しい日が、この日曜日がまた、みなさまにもわたしにも、それぞれによくありますように
by 828summer
| 2017-02-11 15:10
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