2016年 09月 29日
Choose being dull, not keen!(C日記③ 63日め) |
ブログは不思議だ。世のブロガーさんみたいな大志もなく、大げさなことなど書く気は、初めからさらさらない。第1義は自分のなぐさめ、助け(セルフヘルプ、セルフカウンセリング)、頭の整理、リマインダー。自分の等身大の日記を、ただ書こうという気持ちは、第1日めからあまり変わらない。そうした日記をただ書けばいいと、気どらずよく見せようとも思わずにいるつもりだが、読んでくれる人がわずかながらでもいてくれるのが、嬉しくないかと言えば、やはり嬉しくないこともない。(もったいぶって、ストレートに言えよ! はい。やっぱり嬉しいです。)
それでちょっとばかりは、独りよがりばかりでない、客観的な自分には目を醒まして起きててもらい、少しは毎日少しでも何かおまけでもつけようか、なんて感じの色気も自然発生的についてきた。そのうちに、日記になんて長く書いていて、別に特別なことを始めたわけでもないのに、タイムマシーンみたいに、すっかり忘れていたことを思い出すことが多くなってきた。
パラリンピックの話を書いたら、会社帰りにすっかり忘れていた、(山口)百恵ちゃんの「走れ風とともに」を、無意識に歌いだし、歌いながら帰った。大山友子(ともこは、知子だったかもしれない)は、100メートル11秒8。ワンマン社長みたいだった、中条静夫さんのやった父親からは、愛娘でウサギって呼ばれてたんだよな。下半身不随になってから、車椅子バスケットボールやってたような気がする。そういう記憶の扉の開くことが、ほんとうにこれだけでなく、前より多くなったのは気のせいじゃないだろう。
今日は大学1年くらいから、会社に入ってからも数年は手放せなかった気がするので、少なくとも5~6年間は、お守りのように苦しくなる度に読んでいた本の登場人物のこと。純文学なんかじゃない。今考えれば別の本でも良かったのかもしれない。出会ってしまい、わたしの埋められない割れ目に、たまたまぴったりたと、嵌まり込んだようになってしまった、なってくれた五木寛之の中間小説。年も境遇も異なる、ナナエとジュリとトモコという三人の女が、10年位前にインドへの団体旅行で出会う。インドという国の矛盾に、とにかく理解に至ろうとの一心で懸命に向き合うようなだったり、自分の価値観を頑なに変えずに向き合い、怒りばかり感じては、それをぶちまけ疲弊しきっていたり、まるで有閑マダムの不感症のように、何を見ても全く動じず、ただ淡々と旅を続けているだけだったりと、三者三様の向き合い方で旅を続けるうち、3人ははっきりはしないがお互いにひかれあう何かを感じ、旅を終える頃には3人で1つのユニットような、切り離せぬような関係になっていた。それからの10年の間に、3人はそれまで出会った、どの友だちよりも、いつしかもっとも心理的に近いところにいる、親い友だちになった。その10年後の3人の関わり、3人のそれぞれの生活、その心情などが描かれる(表紙はぺーター佐藤さん)。また3人の身の上にはほぼ同時期に、それまでの生活をガラッと変えてしまうような、転機と言えるような出来事や出会いや気持ちの変化が訪れる。
今日、ある人のことを考えていたら、彼女はジュリみたいなんだな、と思えてきた。インド人相手に得意の英語で、納得のいかないことには泣き寝入りをせずに、きっぱりクレームをつけて真っ向からやりあうジュリ。強そうで、華やかで、社交的で、大胆なジュリを、繊細でとても傷つきやすい芸術家肌だから、一番心配だったとツアコンの男性が、その性格を分析してみせた。インドという矛盾に満ち満ちた国に接して、カルチャーショックに絡めとられ、旅を楽しめないばかりか、インドという国を嫌いになってしまうのではないかと。インドという国は、その矛盾に身を任せて、その中にありのまま飛び込んだ途端に、逆にとてつもなく魅力的な顔を見せ始める。ひとたびそうなった人は、今度はインドの魅力に取りつかれる。インドに取りつかれた人間である彼は、彼女がその魅力を知る前に、過敏になりすぎて、インドを嫌いになり、二度ともう来たくなくなるような、インドとの不幸な出会いに、自分が彼女の旅を、コーディネートしてしまうことにならないかと、旅の間彼女を見ていて、それをひどく懸念したと、語っていたような覚えがある。わたしには最初その分析が意外だった。そして示されてみて、わたしには考えのとても及ばぬ、深い分析だなとも感心していたようにも、ぼんやりな捉え方のものだったと思うが、当時読んだ頃は感じていたような気がする。
またわたしに立ち戻ってインド旅行へのアプローチの仕方を考えると、わたしはがむしゃらに理解しようとする、30年経っても、依然として同じやり方をしてしまう、ナナエのそれと大して違ってはいないことに、改めて考えてみて気づき、進歩のない自分に唖然としたりもするのです。わたしも矛盾に満ち満ちてはいながらも、身を任せた途端に、とてつもなく魅力的な顔を見せてくる、そんなインドをよく味わえるようになりたい。多分がむしゃらなだけでも駄目なんだろうね。読み始めたときは、10歳以上も年上だった、小説のナナエの年を、わたしはもうすっかり越え、あと10年したらその母といっても、おかしくない年になってしまう。それまでには、もっとしなやかなアプローチができるといいなぁ、なんてことも思う。その後のジュリさんは、今はどんな風に変わっているのかな。例のツアコン君と再会して、アメリカに渡るところで話は終わったんだったな。
ブログのマジックにかかり、今夜は思わぬ昔ばなしをしてしまいました。なんちゃってヒロイズムに、浸っているように聞こえましたら、大変失礼をしました。どうかご容赦のほどを。今日のところはこのあたりで。読んでくれたひとにはほんとうにありがとう。九月の幕が降りる。あっという間の週末。そんな明日はどんな日になるのだろう。新しい日が、続く週末が、みなさまにもわたしにも、それぞれに悦ばしいものとなりますように。お休みなさい
by 828summer
| 2016-09-29 19:19
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