2016年 09月 10日
感傷~反動(C日記③ 44日め) |
今日は夜までまだだいぶ暑かった。9月10日まで、こんなに暑い日の多い年もあったのかなぁ。なかなか終わらない夏の名残には、(秋の訪れを喜ぶより)より多く夏が終わるのを悲しむわたしなんかは、ほんとうなら嬉しいようなものなのだが、何か戸惑ったりしている。今年もこの時期、台風で災害が多かったので、異常気象は止まらなくて、こまったなぁとやっぱり思う。
家の近くを車を走らせていると、今は黄金色に実る稲と、やはり緑の茎に映えて真っ白に咲く見事な蕎麦の花が、わーっと目に飛び込んでくる。麦秋の様もおんなじだが、またこれにも言葉以前に、一瞬に掴まれ持っていかれる。この光景わたしはみんな、好きだなぁと思う。研ぎ澄まされた中に、くっきり1つだけ、浮かび上がるというのも、はっとする演出かもしれないが、たくさんのものが集まった圧倒的な様子には、視覚の情報は信号になって網膜から脳にかけ上がるのか、メカニズムはよくわからないが、そうだとしたら強い力で急激に伝わっていく感じを覚える。
昨日は日記でも全開だったが、恥ずかしいがときどきわたしも入る、感傷のスイッチが入ってしまっていた。今日は出かけるの(叔母の通夜に)が、夕方からだったので、1日の好ましい計画としては、洗濯など1週間のたまった家事を、ゆっくり出かける時間までには片つける。全然できなかった。朝ドラまとめ放送から、テレビはつきっ放しで、眠くて金曜や土曜の分はうとうとしてしまった。火野さんの自転車旅の後は、昼の再放送でとと姉ちゃんを見直そうと、チャンネルをBS プレミアムから、NHK 総合に切り換えたが、眠けはずっと去らず、真田丸までうとうとしてしまった。観念してテレビを消し、4時までアラームをかけて寝た。
みんな、けっこうそうときもあるのかな!? 時々は感傷的になったり、週末には平日の疲れが出て眠さに襲われたり、だらだら過ごしてしまい浪費した夕方に自己嫌悪を感じたり。わたしなどは、やる気になって、そこそこ頑張れる日もあるにはある気もするが、いつもそっちとこっちを行ったり来たり。そう言えばと連想する。長野市の県立美術館には、思い入れのある長野県へと、本人蔵の作品の大多数を寄贈されたので、(東山)魁夷館が隣接している。魁夷さんの回顧展も幾つも見ているが、隣の県立の方の企画展に行く度に、繰り返しそちらに寄るのもあり(セット券がある)、今ではわたしの一番身近に感じる、好きな画家の一人がその魁夷さんになっている。若い頃はドイツに留学していて、その後の長い創作期間を通して、内外に時には何ヵ月にも及ぶ、スケッチの旅を続けた魁夷さん。(絵の才能の皆無のわたしには、もし生まれ変わったらと)わたしはそんな生き方に憧れる。彼が旅について語り、いつもこころのなかでは、(旅に暫く出ないと旅への)憧憬を感じ、(旅にでて長くなると、日本や自分の家などへの)望郷の気持ちを抱くという。自分の人生、常にこころのなかでは、その憧憬と望郷の間を往き来する、永遠の環を繰り返している、みたいに書かれていたのが、強く印象に残っている。すごい名文家で、こんな拙い伝え方じゃ全然ないので、こんなふうにしか書けなくて、魁夷先生、ごめんなさい、なんだが…。
考えると、わたしもある意味、対極を、生産的と非生産的とか、陰と陽とか、いつも色々と行ったり来たりして、落ち込んだり自己嫌悪するが、それは自然に備わる性質なのだろう。魁夷先生にもあるのだから、それはしょうがないよと自分を、責めずにいようなんて思ったりした。
面白い話がないが、今日はそんな感じです。行ってきた通夜は、(図書館司書から実家を継いだ四十代半ばの女の)お坊さんの話が、わたしにはとてもよかった。(その方をよく知る)従姉妹の旦那にはとにかく長かったと、あんまり熱が入っちゃってて、今日はどうしちゃったの!? 、びっくりしちゃったよ、と人により捉え方はちがうのですが。仏教の話や儀式について、易しく語られるのが分かりやすく、故人や遺族や参列者にかける言葉には、人間味や飾らないやさしさがにじみ出てて、まだまだ青っぽくもあり、いいなとわたしなどは思ったのです。その辺りを自分の覚えにも書きたかったのですが、連日のそんな話が続くと、従姉妹の旦那の反応が普通な気がして控えました。今日のところはこのあたりで。読んでくれたひとにはほんとうにありがとう。新しい日が、日曜日が、みなさまにもわたしにも、それぞれによくありますように
by 828summer
| 2016-09-10 21:23
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