2016年 08月 11日
サマークリアリング since 2016(C日記③ 16日め) |
なかなか掃除は捗らない。1日めに予定したところまで終わらず寝ることになる。第一にがらくたが多すぎる。お金はさみしがりやだから、仲間のいるところに集まると、お金持ちがますますお金もちになる理由を説明する説を聞くが、少なくともわたしはがらくたががらくたを呼んでいるような気はたしかにする。自分の話をするときに何だが、ものを捨てられない人は総じてやさしいというよいなことを読んだことがある。おそらくだが、たくさんのガラクタに囲まれて暮らす、人生に不協和音を抱えるたくさんの人の、住居のクリアリングを通じ、人生や運命の手助けまでをしてきた、それを生業の1つとする、カレン・キングストンさんの、「ガラクタ捨てれば自分が見える」か、その続編か何かだったと思う。前にも書いた通り、生きにくさに悩む中からした読書の賜物ようなこれも一冊。後年になり本は一冊も買わないが、わたしがコンマリさんをすごいなと思う所以は、だいぶむかしに読んだスピリチュアルもだいぶ入るこの著者の、深い洞察に繋がるからで、実際に現象に働きかけて次々とクライアントにミラクルを起こしていく実例を通して語っていく著者の、ガラクタに囲まれて生きることと人生が停滞することの深い関い関連についての話は、生き生きとして魅力的で、一読すると鮮烈な印象を与えて心に強く留まる。
だがわたしはそれが、これまでできないのである。わかっちゃいるけどやめられない、だったかそんなところ。また“やさしい”というのも、自分でも自分の特性としてよく分かる。ただ、このやさしいは世間的なよい特性としてでなく、意思が弱い、軟弱、非情になれない、そういう性質のもの。またものがみんな大事に思えてしまう、特に書かれたものと洋服がいけない。選別されぬまま溜め込まれる。地震の年から、わたしの人生で何度めかの激動を続けていた、主に仕事を中心とする生活が、激流は抜け一応の緩やかな流れに差し掛かったかと思えた、去年かその前の年辺りから、ずっとそれでもクリアリングは、しなければと思い続けていた。
今日はそんなことを思い返しながら、片つけをしていた。それでもお寺が檀家に配る広報1つ捨てるのに、ちょろっとでも読んでみたくて堪らないのだ。それにはたまたま、このお盆の時期だからか、施餓鬼供養の由来や現在の習慣などについて書かれていたが、餓鬼は何でも貪り欲しがる性質を持った心の状態(境涯)の意味もあり、またあれが欲しいこれが欲しいと、子どもは際限なく欲しがるところから、その名を取ってガキと言われるようになったのだともあった。自分のこのやたらめったらものを取っておきたい、この執着はやさしい、弱いもあるが、餓鬼みたいだなとも思いながら、相変わらずのことをしていた。
胃腸の調子と相談しながらの食事。もらった野菜を使いながら考えている。夏リンゴとトマトのすりおろしに塩を入れたもの。トマトとピーマンの少し油を使った卵とじ。蒸しジャガイモに瓶入りのマヨネーズをのせたもの。これらはかなりやさしく感じた。昼に食べたうどんに市販の釜玉ソースをかけて、野菜をトッピングしたものはよくなかった。お中元にもらった、熊本のあしきた農業協同組合の、デコポンの果肉たっぷりのゼリー、これは果肉の量がはんぱなくて、すごく美味しいのだが、こちらは今のわたしには△。
心で旅に出ているつもりだが、まだ家の近くをうろうろしている感じ。もう1日はお坊さんを取り敢えず迎えるための、やっつけ掃除を。後は飾る花や、お供えの野菜や果物を買いに出るのが唯一のタスク。今日のところはこのあたりで。読んでくれた人にはほんとうにありがとう。新しい日が、みなさまにもわたしにも、それぞれによくありますようにね
by 828summer
| 2016-08-11 18:41
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