2016年 06月 04日
ただつらつらと!~年をとることの良面など(C日記② 48日め) |
またわたしには、いつもののんびりできる週末です。今週は2日とも、どこかに出かける必要もなく、のんびりをしようと決めました。きっとわからない人にはわからないだろうけど、2日もただのんびりできるなんて♪と、最近はこれがわたしにはたまらなくわくわくする、地味だけど自分には小さくなく嬉しい時間です。やっぱり家にこもるのが好きな人と、アクティブに外がいいって人、その両方の間を自由に行き来して楽しむ人、人にはもって生まれた好みやタイプがあるんですね。わたしはたぶん最初のタイプが8割を占め、残り2割で三番目のタイプを併せ持つような感じかなぁ。お月様のように自発的にでなく人に便乗して外向きを楽しむ時や、同じところに滞り続けると、反動でそっちを求めて動きたくなる時が出てきて、そちらに向かう。それがパターンみたいです。
このパターンってのが結局、その人の本質的に持ってる性質が、見えるようになって現れてきたものじゃないかと思えます。じき人生も半世紀ですからね、自分の嗜好というか、パターンは、そうやって見て感じる積算時間が、若いときと比べ格段に違いますから、自分はこうじゃないかってことが、さすがにつかめてきますね。そして、まぁ、もう自然体でいいか!と、力が抜け出したら、認められるようになってきました。諦めだけじゃなく(と信じたい)。ちょっとこの先はどうなるのかな!? と、未知なことなので分かりませんが。
節目の年が近づくので考えます。もう自分もこんな年かと愕然としたり、幼稚なとこいっぱいでこれでいいのか!? という焦りもあるし、経年劣化や社会の隅に追いやられるようなイメージなどには、年とることにはまだ嫌だ、怖いと思ってしまう気持ちもある。でも自分がわかってくる、世の中がわかってくるような、そんな体験の積算カウントがだいぶ揺るがない位に、上がってくる時期というのは悪くないし、今ならではのものかもしれません。
先日亡くなった劇演出家の蜷川さんの最晩年の1年半を、NHKが追ったドキュメントを今夜観ましたが、更に老いや病いが伴ってくると、別の意味のチャレンジが加わりますね。でも端から見たら大変そうでも、それを隠さない蜷川さんを見ていたら、しめっぽくもなく、ユーモアや余裕すら感じられて、可愛そうなこととはわたしには見て思わなかった。蜷川さんが、さんざん演出を通じわかったつもりで描いてきた、人が老いや病を伴って生きる感じも、こうして自分の体験でわかってくると、また本物は更に違うものだったと実感で捉えられ、味わい深いと言っていた。体のそれとは別に、精神はより自由になっていく時代を、蜷川さんに見せてもらって、ああ大先輩、ありがとうという感じ。周りも涙、涙ではなく、わたしも老いても、病みたくはないが例え病んだとはしても、ああいう風に生きたいと思った。
今日はさんざんここでも書いている、おきまりの土曜の午前中を過ごした後、久しぶりにいつもと違うことを1つしました。
これです。
↓
http://artbeing.com/m/aura-soma/reading.html
オーラソーマの無料体験。その人の固有の、またその人の時々の状態を、惹かれる色から導きだして見せる占いみたいなもの。それがスピリチュアルな、ファンタジーみたいな世界観から語られるのが、わたしは好きなのですが…。実際に色を選ぶボトルを前にやってもらったこともあるし、一冊だけだけれど本も買って持っていて、折りに触れては自分で、その時々の自分と少し先の変化を想像しながら、本で色を選び、その詩的なメッセージの神秘的な言葉を好んで、親しむようにしてきた。このサイトでは同じことが、選んでクリックするだけで、その場でできてしまうから、ある時からは簡易的にはこちらを利用させてもらっている。現物の色のボトルは、様々な主に自然のものから作られた色を封じ込め、匂いも感じられるし、アロマのように嗅いだり体に塗ったりて、パワーをもらうような働きもあるらしい。サイトはその通販が主目的なんだろうが、わたしはあまりそちらには興味ない。
最初は今日は占いのことを書こうと思ったが、書き始めたら反れだした。でもこちらも、こういうのが嫌いじゃない人は、一度やってみるとこれは案外に好みだとか、気晴らしや暇潰しにもなるしでお奨め。わたしは詩的な神秘的な言葉で、あるまとまりをもった世界観が語られるので、一読と直感だけでは覚えていられないので、メモもする。読み返して楽しむ。今回は一年ぶりくらいにやったのかな!? 今回は4つすべてに、大天使のボトルばかりを選んでいた。こんなはのは初めてのことだった。新しいボトルでまだ、未定義の部分があるらしいのも選んでたようで、何やら面白かった。
わたしはけっこう占いは好きなのだけど、先の方に年をとるとパターンがわかってくる気がすると書いてみて、ああそうか!! と思ったことがあった。若い頃はそれが芒洋としているから、わたしは占いにそれを知るヒントを得たくて、有事というか何かに行き詰まると惹かれ求める時があったのかもしれない。それが平時には、ただの占い好き、趣味みたいに傍らにあった。今のわたしは年をだいぶ重ねて、占いも切実に求めることがなくなった。好みの自分にあったものにだが、リスペクトのようなものはあり、こんなことがあったら、こんなだったら面白いかもと、自分に重ね合わせて楽しむ、占いはファンタジーをたのしむような、趣味のようなものになってきている。
だらだらと書いた。今日のところはこのあたりで。読んでくれた人にはほんとうにありがとう。どんな日曜になるでしょうか。新しい日がまた、みなさまにもわたしにも、それぞれによいものになるように願いつつ
by 828summer
| 2016-06-04 20:31
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