2016年 05月 29日
強烈なアンチテーゼだった(C日記② 42日め) |
今日はほぼわたしの読書感想になりましたが、わたしには相当、苦いものになりました。朝からや、気持ちの落ちてる時に読んで気分のよいものではないこと、予めお断りをします。
今日は結局、クラフトフェアには行かなかった。凍らせた梅は、梅ジュースと、ドレッシングなどに使う酢にするため、わたしが適当に作り始め愛用している熟し気味の梅をただ酢で漬けるだけの、梅酢のようなものにするつもりでいた。それもやらなかった。それでも今年は梅は妹から聞いた知恵で洗った後は冷凍庫に入れたため(浸透圧の関係で早く浸かったり、虫の卵などあれば死ぬなど効用があるらしい)、こんな優柔不断なわたしを傷まずに待っていてくれるので、ありがたい次第だ。
ただ洗濯だけを何度もして、日美と「のど自慢」を見て、後はなかなかわたしには危険な読み物になった、「鬱屈精神科医、占いにすがる」春日武彦著(太田出版刊)を、読んだり中断したりしながら読んでいた。そして先程、読み終わったところ。前に今読んでいると一度日記に書いたときは、著者のような考え方をする人、考え方や性格は、わたしに似ているけど寧ろ自分とは違う方が大きいと、半ば危険地帯の外から読んでいるような、状態だった。
今風の言葉で言えば毒親ということになるのか、母親に思うように愛されなかったことで、常に自己嫌悪する気持ちに60歳を過ぎても支配され、完全に思考パターンはそれに左右されて生きていると著者は告白する。自分を縛って身動きできなくなる考え方なのに、親に愛されないからという理由を(今でも愛されたいという裏返しの無い物ねだりの願望でもある)、苦しくても自分からは決して脱却しようとはせず、そこにこだわったまま、劇的な気持ちの救済を求めると語る。
これを言っているのは、精神科医でそのように歪んで考える精神の病理も、解決法も他人へのそれとしては、熟知した上で言っている人物である(実際それについては本書でも語られる)。徹底して自分がどう感じるかばかりに、そして他者としては(妻がいる今でも)唯一、母親に自分がどう評価されるかばかりを気にし、本人はそこだけに価値を置いて生きてきたという。(極論するとだろうけど、偽悪的なのかそうは言わない。社会生活上は、自分を隠して生きているが、考え方の性質は境界型人格障害のレベルに分類できるだろうと公言する。)
この方にとっては唯一絶対神のような存在の、美人で気位や美意識の高そうなスノッブな感じの母親がいたようだ(少し前に90代で亡くなっている)。その人が息子に望むものは、何より息子が自分と同じ美男であることで、自分がそうでないことで絶望させている。このため自分は他にどんな努力をしても、彼女からのほんとうの評価という価値は勝ち取れない。次善のものとしてあるのが、自分が精神科医や文筆業(わたしはこの方を読んできていない。調べたらWikiには穂村弘や吉野朔実と親しいとある)として高い業績をあげ、人から評価されることと言う。どちらも二流で望むように評価されるレベルではないと自嘲する。自慢ととられかねないが、ほんとうに本心で心に安寧はないと言うのは、本心だろいと読者のわたしには感じられる。厄介だなと思う。自分を評価しない世間も、自分より才能あると思われる人も、憎悪してやまないと、とにかく自分をこれでもかという位に、嫌悪させるような人物に語る。
この辺りを読んでるときは、わたしはこんなじゃない。わたしはもっと楽になりたい、楽になりたい、と抜ける方、抜ける方に舵を切ってきた。どうしてそれじゃいけないの!? と、自分への強烈なアンチテーゼを突きつけられている感じだった。
本は残りの枚数が少なくなるのに、この方の自分語りにも、それを受け止めるわたしの気持ちにも救いらしきものは、いっこうに現れる気配はない。この日記でのわたしも考えたら、ひたすら自分、自分、自分で、その気持ちばかりを書くことが多い。普段は比較的ものごとはニュートラルに考えられ、人も好意的に捉えられると思っていたが、ひとたび自分に攻撃を加えられたと感じると、わたしも相手を憎悪する気持ちは弱くないこと、よくわかってきた。だんだんに著者が自分と似た存在であることに今度は意識が行きはじめる。
後書きまで読んで、わたしはこの方を嫌う気持ちはなくなっていた。こんなにあからさまに書く、(文筆家はともかく精神科医としとて)自らがこの先、人にどんな存在かと捉えられるかの恐怖を越え、明らかな危険を侵し、あるがままに近く、自分のこころのままならぬ不条理を見せる勇気をもって書かれた文章。また後書きには謝辞を書く位に、建前の社会生活をする著者に着地している。人間らしい、安心感を抱かせる人格で語られる著者に戻ってこられて、わたしなどはようやく一息つける。この方は、自分はほんとうは境界型人格障害の歪んだ見方の人間だと言うかもしれないが、分かっていて長年仮面を被れたなら、こっちだって十分にこの人の一部だと思ったりする。いつものわたしならここで、そこに安易な安定点を見出だして、複雑なものを無理に四捨五入して丸めるような暴挙を犯す。それで気持ちが楽になるように生きてきた。「せっかく普段気がつかなかった、深いことや広がりのあることに考えが及んだのに、そんなところに丸めちゃったら、安易に落とし込み、それ以上考えるのをやめちゃ、残念でしょ」と、わたしのその短絡を昔諭されたことがあった。よく覚えているのに、なかなかそれができないでいるわたし。でも今日は、複雑なものは複雑なまま、この本に書かれているような、人が生きるのを難しくする思考のパターンを捨てないことの意味とか、不条理とか、どうしょうもなさとか、このまま丸め込まずに持ち続け、考えていこうと思った。著者の勇気と、わたしにかつてそう言ってくれた、今はなかなか会う機会のありそうにないGさんに、感謝の気持ちを覚えながら。
今日のところはこのあたりで。読んでくれた人にはほんとうにありがとう。新しい週がまた、みなさまにもわたしにも、よくありますようにと
by 828summer
| 2016-05-29 17:47
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